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Wim Wenders

ウィム・ベンダース


Thursday, August 16, 1945
ヴィルヘルム(ヴィム)は医師の長男としてデュッセルドルフに誕生。

1949年(4歳)
次男クラウス誕生とともに、ライン川上流のコブレンツに引越。再びルール地方のオーバーハウゼンに引越。

1950年代
チャック・ヴェリー、エディ・コクラン、エルヴィス・プレスリー、ロイ・オービソン、リトル・リチャード、ジーン・ヴィンセントなどを聞く。

1960年代
ビートルズがデビューすると、ゼム、ジェリー&ザ・ペースメーカーズ、キンクスといったイギリスのロックに移行する。家ではロック厳禁で、友達の家でこっそり聞いていた。

1963年(18歳)
大学入学資格試験に合格。ミュンヘン、フライブルク、デュッセルドルフと大学を転々としながら、医学を2学期間学ぶ。その後2学期間哲学と社会学を専攻。この頃、ユナイテッド・アーティスツのデュッセルドルフ支社でアルバイトとして3ヶ月働く。

1966年(21歳)
デュッセルドルフでペーター・ハントケと出会う。
10月、画家を志し、パリへ向かう。ジョニー・フリードランダーのアトリエに通い、銅版画を学ぶ。アトリエが閉まる午後2時から夜中の12時まで、毎日アンリ・ランゴロワのシネマテークに通い、1年で合計1000本以上の映画を見る。

1967年(22歳)
ミュンヘン映画・テレビ大学が開校され、入学。
「シャウプラッツェ」
「セイム・プレイヤー・シューツ・アゲイン」

1968年(23歳)
『フィルム』『フィルム・クリティーク』『南ドイツ新聞』『トゥヴェン』誌で映画批評を始める。 「シルヴァー・シティ」「警察映画」を撮影。デモ隊に混じって撮影中、逮捕・拘留される。 画家のエッダ・ケッヘル、大学の同級生マティアス・バイスと同居。ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーやハンナ・シグラと出会う。

1969年(24歳)

1970年(25歳)
「サマー・インザ・シティ」をもって卒業。
この年、67年に出会い、同棲していエッダ・ケッヘルと結婚。

1971年(26歳)
新しい配給会社、フイルムフェアラーク・デア・アウトーレン(Filmverlag der Autoren)の構成メンバーとなる。ニュー・ジャーマン・シネマと呼ばれる一連の映像作家が登場し始める。
「ゴールキーパーの不安」撮影。

1972年(27歳)
「ゴールキーパーの不安」がニューヨークで上映されることになり、初めてアメリカにわたる。小津安二郎作品に出会う。

1974年(29歳)
ドイツ第一テレビ放送から依頼された、ケルンの課外レクレーション施設の問題を扱うテレビシリーズ「私たちのための家」を撮影。担当したのは心理療法への理解を求める第九回と第十回「ワニの家族から/島」。
「まわり道」撮影。

1975年(30歳)

1976年(31歳)
ロード・ムーヴィーズ社設立。「アメリカの友人」撮影。

1977年(32歳)
ハントケの「左利きの女」をプロデュース。
東京で開催された「西ドイツ新作映画祭1977」のため来日。
「夢の涯てまでも」の企画を練るため東南アジア、オーストラリアへ旅行。
コッポラから「ハメット」の企画を持ち込まれ、アメリカへわたる。この時点でリザ・クロイツァーのみがミュンヘンに戻ることで別離。

1978年(33歳)
いつも編集を担当してくれるプルツィゴッダの監督作品「ディーゼルエンジンの誕生」をプロデュース。

1979年(34歳)
カントリー&ウエスタン歌手兼映画女優のロニー・ブレイクリーと結婚。

1980年(35歳)
クリス・ジーヴァーニヒとニューヨークにグレイ・シティを設立。

1981年(36歳)
ロニー・ブレイクリーと離婚。前後してイザベル・ワインガルテンと交際。「領土」撮影中のワインガルテンに連絡し、資金難で撮影が中断していると聞いて家にあった余りフィルムをもってポルトガルに参上。「領土」のスタッフと「ことの次第」を撮影。

1982年(37歳)
3月、フランス国営放送アンテ2の依頼により「シネマ=シネマ」シリーズの「リヴァース・アングル」を撮影し放映。
5月、カンヌ映画祭に出席した監督たちを呼んで「666号室」を撮影。「リヴァース・アングル」と同シリーズで放映される。
6月、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー死去。ニュー・ジャーマン・シネマの終焉と言われる。
8月、ザルツブルク演劇祭でハントケの「村々を通って」の演出を引き受ける。
9月、「ことの次第」がヴェネチア国際映画祭グランプリ受賞。
「ハメット」公開

1983年(38歳)
第1回ドイツ映画祭出席のため、東京ドイツ文化センターに招待。この時、「東京画」の撮影を開始する。翌年もいくつかのシーンを撮影。
「パリ、テキサス」撮影。

1984年(39歳)
カンヌ映画祭で「パリ、テキサス」がグランプリを受賞する。公開されると、全世界でヒット。但し、ドイツでの上映をめぐって、以前設立したロード・ムーヴィーズ社とフイルムフェアラーク・デア・アウトーレンがトラブルを起こし、これを機にFDAと手を切ることになる。

1985年(40歳)
「東京画」公開。

1986年(41歳)
「ベルリン、天使の詩」撮影。この頃ソルヴェイグ・ドマルタンと結婚。

1988年(43歳)
第1回ヨーロッパ映画賞受賞。東京にて「都市とモードとビデオノート」撮影。翌年、パリにて春夏コレクションを撮影。

1989年(44歳)
1月、ソルボンヌ大学より名誉博士号を授与。同時に表彰されたのがウンベルト・エーコだった。 5月、カンヌ映画祭で審査委員長をつとめる。ソダーバーグの「セックスと嘘とビデオテープ」をグランプリに。

1990年(45歳)

1991年(46歳)
「夢の涯てまでも」公開。興行的に失敗。フードリヒ・ヴィルヘルム・ムルナウ賞を受賞。ヨーロッパ・フィルム・アカデミーの議長に選任。1996年まで同職を務める。

1992年(47歳)
「時の翼にのって/ファラウェイ・ソークロース!」撮影。その後、ソルヴェイグ・ドマルタンと離婚。

1993年(48歳)
「時の翼に乗って」の撮影監督ユルゲン・ユルゲスの助手をしていた写真家、ドナータ・シュミット(当時28歳)と結婚。HFF(ミュンヘン映画テレビ大学)で名誉教授として教壇に立つ。リスボン市の記念映画ドキュメンタリー映画だったのを劇映画に発展させた「リスボン物語」を撮影。

1994年(49歳)
11月、「愛のめぐりあい」撮影。翌年春まで続く。

1995年(50歳)
スイス、フライブルク大学より名誉博士号を授与。

1996年(51歳)
「ミリオンダラー・ホテル」の企画が進まないため、脚本家のニコラス・クラインと「エンド・オブ・バイオレンス」の企画を立て、3ヶ月で撮影完了。

1998年(53歳)
ライ・クーダーに声をかけられ、イブライム・フェレールのレコーディングを撮影するため、急遽キューバへ向かう。アムステルダムとニューヨークでの撮影を加え、「ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ」となる。

1999年(54歳)
U2のボノが1987年に思いついたアイディアをもとに、ニコラス・クラインが長年脚本を練っていた「ミリオンダラー・ホテル」がようやく撮影される。

2002年(57歳)
マーティン・スコセッシの総指揮により「The Blues Movie Project」始動。そのうちの一本、「ソウル・オブ・マン」を撮影。

2003年(58歳)

2004年(59歳)

2005年(60歳)
「ランド・オブ・プレンティ」日本公開。
「アメリカ、家族のいる風景(Don't come knockin)」をカンヌ国際映画祭に正式出品。アメリカにて公開。
8年間活動のベースにしていたロス・アンゼルスを引き払い、ベルリンに帰還。

2006年(61歳)
2006年2月「アメリカ、家族のいる風景(Don't come knockin)」日本公開。
2006年4月29日(土)〜5月7日(日)表参道ヒルズにて写真展「尾道への道」開催。

2007年(62歳)
2007年5月カンヌ映画祭にて上映された「Chacun son cinem」に参加。35人の監督による短編映画集。

2008年(63歳)
「Palermo Shooting」クランクアップ
2008年4月 Neue Road Movies設立


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